海外旅行の扉が開いた!
行ってくるわ〜
行って来るわー♪
(クリックしてね)
それは高校3年生のある日。
教室の後ろの掲示板に貼られていた一枚の紙を発見。
姫路市の姉妹都市であるアメリカ・アリゾナ州のフェニックス市への交換留学生を募集しているとのこと。
何の迷いも無くクラス担当教師に即応募!
一部負担金は破格安値の15万円。
当時まだまだ海外旅行は高値だったし、1ドル200円台…。
ほとんど使わず貯めておいた「こども貯金」が20万円近くあるので、これを使おう♪

ひゃっほ〜海外旅行だよ〜

ラッキーなはじまり
校長先生の本
校長先生の本
深く考えず申し込んだはいいけど、誰でも行けるというわけには
いかなかった(^^;ゞ ・・・甘かったか(^^;ゞ
1校からは1名しか推薦出来ないとのことで、校内選抜が実施されました。面接官は校長先生。
校長もフェニックス市に行った経験があり、その思い出を綴った本を出版していた。
指示通り校長室に向かうと校長はいきなり英語で話しかけてきた。
む・む・むぅ〜〜?!でも大丈夫だった(^o^)v
だってベタベタな日本人発音のすっごく簡単な英語だったし。
校長の話によると私以外にも数名からの申し込みがあったのだけど、
私以外は1、2年生で3年生の私には"最後のチャンス"とのことで、
即決♪ラッキーだったな♪
この旅は最初から最後までラッキーに恵まれたものとなるのです。
いざ面接へ
当時の新聞の切り抜き
採用を伝える新聞記事
旅のコラムでも紹介してます
本面接は姫路市役所の一室で行われました。
事前に小論文を提出していたのですが、なにせ合格したいので熱〜〜く国際親善について語ったものとなってたような。

面接会場に行くと定員の約2倍の生徒。
英語での面接があるとのことですが、なにせ英会話の経験がゼロに近い私。不安いっぱいでした。(ーДー;)
英会話教室に通ってるという子もいたりするし。
・・・・・その不安は的中!
外国人面接官の質問が聞き取れずに「アイム ソリィ〜〜」なんて間抜けに答えたのは私だけ。ヤバイ(>_<)大ピンチ!
その後の日本語での面接はハイハイと何度も、何度も手を上げて必死に自分をPR!
人と同じでは駄目だと思い、当時、姫路に多かったベトナムからの難民のことなんかも答えた記憶があります。なんせ明るく積極的に。
この交換留学生の派遣の目的は「親善」で、私たちに求められていたのは、英会話の能力や学力にあったわけではなく、その点を充分理解していた私の作戦は大成功。
見事アメリカ行きのキップをゲットォ〜〜!v(^o^)v
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ラッキーは続きに続く
神戸にパスポートを取りにいって記念撮影
三宮でハイチーズ!
右上後ろに、SOGOの看板・・
無事に採用され、準備にかかります。
ラッキーは続きました。
10名採用された内の私が一番お姉さんとのことでリーダーに選ばれました。
リーダーに選ばれたことによって、新聞記事でも代表で名前が載ったり、歓送会で出発の挨拶をしたり、フェニックス市長を表敬訪問したときには代表スピーチをしたり、数々の貴重な体験をさせてもらえました。

出発までの期間は毎日、校長の計らいで、当時に派遣されてきていたアメリカ人教師のもとへ、英会話を楽しみにいっていました。
今までまともに英会話をしたことがなかった私が、知ってるありとあらゆる単語を並べることによって意志の疎通が出来るということが、楽しくてたまりませんでした。
今思えば贅沢なひと時だったものです。先生を毎日独り占めなんて。

写真は神戸の三宮で。当時姫路の住人はパスポート取得には神戸まで行く必要がありました。私たちは姫路市のチャーターしたバスで送迎付きで。
旅行前のちょっとした旅行気分。旅券事務所のあった三宮そごう前でハイチーズ!
いよいよ出発
記念撮影
伊丹空港でハイチーズ!
行ってきま〜す(^o^)/
OBの経験談を聞いたり、フェニックスから来ていた学生と英会話のレッスンを兼ねてコミュニケーションをとる経験をしたりで、あっという間に出発の日がやって来た。
旅費は自分で払ったけど、田舎モンばかりの我が家の親戚一同で、なんかすごい大げさな事態になっていて、すごい額の餞別が集まり嬉しい悲鳴(*^_^*)
市長を表敬訪問する時に必要な制服をクリーニングに出したら、もともと薄くなっていたスカートのポケット部分が破けてしまった。
いずれは破れる運命だったのに、クリーニング屋が弁償してくれて新品のスカートをゲットォ〜!またもやラッキー♪
母親が新しい浴衣も縫って用意してくれた。
飛行機が墜ちては大変と、部屋もきれいサッパリと掃除して過去のヤバいもんは何一つ残してないはず。準備万端!いざ出発!!(よければ写真をクリックして下さい)
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団長はパパ
パパと握手
歓送会。パパと握手
学生の引率は姫路市国際親善友好協会・副会長の「パパ」。出発の朝、歓送迎会がありました。
国際親善友好協会会長、我等の団長「パパ」、姫路市助役の激励・挨拶を受けて、いよいよ私の出番です。新聞には
「若さと情熱で両市の交流に役立ちたいと決意を述べた」
とあります。覚えてないや。・・・あんまりにも昔の話だから(^^ゞ
力強い挨拶をありがとう、みたいなことを言われたかな。
姫路からは父兄同伴でバスで伊丹空港へ。
当時の日程表を見てみると「大阪(発)15:05→ロスアンゼルス(着)11:05(発)14:10→フェニックス(着)15:15」とあります。成田で乗継でした。
結構ハードな道中に思えるけど、若かったので全然苦にならなかった。
ハプニング発生
この時はまだみな元気
成田で。みんな元気です。
この後の悲劇が・・・。
生まれて初めての飛行機に海外。
目にするものすべて珍しく新鮮で、JALの客室乗務員の美しさに見とれ、飲み放題のジュースや、時折配られるアメちゃんに嬉嬉とし、あっという間にフェニックスに着いたような気がします。
道中で大ハプニングが発生していたのですが・・・。

成田を離陸する時、飛行機はタイヤを二度ほど地面にバウンドさせた。
なにせ、その直前の大阪→成田が初の飛行機だったので、こんなもんかと思った。
ロスに向け下降体勢に入った時も、ジェットコースターが一番高いところからヒューッと落ちるときのような下降を何度も何度も繰り返したけど、こんなもんかと思った。半端じゃない気持ち悪さだったけど・・・

後に飛行機を何十回と乗る事になるのですが、その飛行機(操縦士?)が最低でした。
あんな急降下を何度も繰り返す飛行機には、その後に遭遇したことがありません。

不運な事に、3人ほどの学生が気分が悪いと訴えだしました。
その中の一人は特に重症に見えた。
「真っ青な顔」というのは、この状態を言うのであろうと思える血の気が引いた顔。
可哀想に・・・。
ロスに着陸し、飛行機から降りた彼女は一度は歩き出すが倒れてしまった。
客室乗務員や地上係員らが慌しく働き、遂には医師もやって来た。
心配で覗き込んでいた私の耳に、医師の血圧の上が60いくらかだと言う声が。
血圧が60台なんて〜ひゃ〜恐い!
今からまだ飛行機乗り継いでフェニックスに行くのよ!?
大丈夫?!
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パパの「第六回少年少女親善大使引率記」より抜粋
文集の表紙です
第6回交換学生派遣
特集号
そのハプニングの一部始終は後の文集に詳しく書かれています。
ただ単に「エアシック」で、別に異常は無いという診断でしたが、
再び抱えられながらも立ち上がった彼女はまたもや倒れてしまった。
「エアシック」なんて名は、この時初めて知りました。
再診断の結果、病院で点滴をする必要があるとのこと。
病院?!どうなるの?!
パパの文章をそのまま借ります。(以下、赤字は抜粋)

この子と病院に行けば、あとに残った9人の子をどうしたらいいだろう?心は二つ、身は一つ。頭の中で色々な思いが渦を巻いた。
結局、「この子を連れて救急車で病院へ行こう。あとの9人の子は自分達だけでフェニックスに行けるであろう。リーダーは女性ながら、しっかりした3年生で、今も彼女はロス空港名物の訳の解らない物乞いの男を落着いた態度で、見事に撃退したばかりである。みな信頼に足る立派な子供達だ。心配はない」と決意した。


子供達だけでフェニックスに行かせようなんて、パパも大胆やわ。
そういえば、ロスで寄付とかを集める人がいっぱい寄って来たけど、
「私達はみな生徒でお金を持つことを禁止されてます」で追い払ったなぁ。
ケチなので咄嗟に思いついたウソでした。小遣いたんまり持ってたねん(´・ω・`)

医師に病院に行くように指示された彼女でしたが、何が何でもみんなと一緒にフェニックスに行きたいと強く訴えました。
医師は彼女の強い意志を感じ取り、2つの条件付きで許可を出してくれました。

「よろしい。但し、2つ条件がある。一つはフェニックスに着いたら必ず医者に見せること。二つは、ここにサインすること」 それは、先程少女の氏名生年月日などを記入し、保護者として私がサインをした書類であり、その下の欄には、「私は、上記の医師の診断を受けたにも拘らず、その指示に従わず、拒否したことをここに証明します」とあった。

なんかアメリカって感じ。
ロス行きの機内で
フェニックスに向かう機中の彼女は本当に苦しそうだった。

一番元気が良い女性とを介助に頼み、二人の間に病人を坐らせ、両側から絶えず脈拍、呼吸、顔色をチェック。

彼女は飛行機が揺れるたびに眉をしかめ、必死に耐えていました。
完全に血の気は引いたまんま。

わずか1時間の飛行である。しかし、何時また悪化するかも知れぬ病人を抱え、薄氷を踏む思いの私にとって、それは実に長い、長い1時間であった。

彼女もパパも生きた心地がしなかっただろうな。
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フェニックス空港へ無事到着
私のホストファミリー
素敵なホストファミリー
彼女は、まさに「傷みに耐えてよく頑張った!感動した!」
車椅子に乗せられるも無事にフェニックス空港へ到着。
そこには、これからお世話になるホストファミリーの顔ぶれが♪
彼女はパパの手から車椅子ごとホストファミリーに託されました。

そして私も・・・すてきなホストファミリーが・・・♪
私のホストファミリー
私のステキなホストファミリーフェニックスの空港では各ホストファミリーがホストする生徒の名前が書かれた可愛い紙を持って待っていてくれました。
私はなかなか見つけることが出来ずにいると、「里子さんですか?」と日本語で話しかけられ、驚いて振り向くと私のホストファミリーが(*^_^*)
ホストマザーは韓国人で、ご夫婦とも日本に何度か来られたこともあるそうです。
ファミリーにはアンという5歳の女の子がいて、私のことをビッグシスターと呼んでくれて、とても懐いてくれました。(体が大きいからビッグちゃうで)

ホストファーザーは大学の教授でした。
一度、彼の書斎で「サンダーバード大学」と書かれた書類を見つけて、思わず「♪サンダァ〜〜♪バァ〜〜ドォ〜〜♪」と嬉しくて歌ってしまった。全然ウケなかった('・ω・`)


ホストマザーは当時「アメリカンエキスプレス」に勤めていました。
彼女は韓国人で、韓国で英語の先生をしていたそうです。
韓国に来ていたホストファーザーと恋に落ちて、国際結婚(*^_^*)
彼女は日本語がかなり話せるようでしたが、私が調子をこいて「将来留学したいな♪」とか言っていたので、会話は最後まで英語で通しました。

私とホストファミリーとの英語の会話で不自由はさほどなかったのですが、私と話し終えた後、ご夫婦が会話してる英語は最後までちっとも聞き取れなかった。
私には、わざとゆっくり話してくれてたのねぇ(^^;)


あと、アンの話す英語はちっとも聞き取れずに、ホストマザーの英語から英語への通訳が必要でした。
たまに二人きりで時間を過ごす時があったのですが、通じない英語の上、子供が苦手なので大変でした。(^^;)
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I LOVE PHOENIX  そして・・・  
水着〜きゃ〜
最初で最後の水着姿を披露します。
隣はもちろんスコット。
あ〜笑顔がス・テ・キ・・・・(*≧m≦)=3
このアメリカ編を作成中、私はずっとにやけっぱなしだった。
なぜなら・・・・。

私のホストペアレンツは共働きで、そのため他のファミリーとかに預けられることもあり、その中で素晴しい出会いもありました。
その名はスコット♪もう・・・・ごっつい男前
(*^_^*)
今もにやけてるけど、フェニックス滞在中はずっとにやけてた気がする。

帰国後も、ずっとにやけてた。
人生で一番幸せな時期だったかも。
(*・(●●)・*) ブヒヒ〜
スコットと私 楽しいバーベキュー
スコットったら、肩に手を・・・
今の私なら、負けずに腰に手を回してるだろうな。
初々しかった昔(*≧m≦)=3
皆で記念撮影。ちょっと〜ぉ!
私のスコットに手を回してるの誰?!(-_-メ)
左の方にグズってるアンとホストファーザーの姿が。
歓迎行事     私達とホストファミリーのため、一日おきに歓迎行事を用意してくれていました。
必死でスピーチ中
カンペ見ながら必死でスピーチしています。
パパの記録には
「リーダー○○里子の見事な英語の代表スピーチに満場から拍手がわく」
とあります。実は事前にパパからカンペもらっていたので読んだだけ。
市役所にはホストファーザーの運転で向かったのですが、道中ずっと「発音指導」してもらってた。





フェニックス市の会議場
ど真ん中で一番大きな席に座れた♪

市議会場を見学した時には、リーダーだと言うことで一番真ん中の市長席に座らせてもらった。
パパの記録には「模擬議会を開始」とあるけど、ち〜っとも覚えてない。
市長がケント・デリカットに似てたのだけ覚えてる。

市長の名前は、GOADDARD。日本語でベタ読みすると「ゴダード」
ホストファーザーの発音指導は厳しかった。
「ダー」と伸ばす部分は、ジャイアント馬場の「パ〜」のように。
でも、これがなかなか出来なくて、車中ではジャイアント馬場と、出来損ないジャイアント馬場の「パ〜」が響いていました。
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POT LUCK さよならパーティー
浴衣を着て記念撮影
ホストファミリーと記念撮影。
アンがおどけています。
フェニックス滞在はたった8日間。
毎日本当に充実していました。

フェニックス市の姉妹都市委員会の夫人役員のルースの自宅のプールサイドでさよならパーティーが催されました。

砂漠の真ん中にあるフェニックスのほとんどの家庭にプールがありました。うらやましい・・・。
真夏のフェニックスは暑いというより“熱い”。
暑いせいか、エアコンのシステムが完備していて、家中、トイレからお風呂から全室クーラーが効いていて快適でした。


このおしゃれなプールサイドで輪になって「播州音頭」を踊りました。私はオカンが用意してくれた新品の浴衣で♪

願いをこめて風船を飛ばす
一番右端の黄色の風船が私です。
願いがいつか届きますように・・・。
パーティーではプレゼントが用意されていました。
プレゼントが入った箱には風船が結ばれていて、願い事を込めて皆で夜空に放ちました。
ほとんど記憶が薄れた大昔のことですが、願い事だけはよく覚えています。
それはもちろん、「フェニックスに帰って来れますように」!

その願いは20年以上、叶えられていないけど、
必ずや、フェニックスに行くことに違いありません。


翌日からはロサンゼルス・サンフランシスコ観光です。
ずっとここにいたいと心より願った・・・。
第6回交換学生派遣(特集号)のマイページ
マイページへ文集です。表紙を開けるとすぐに私のページ。
かなり長いし、恥ずかしいけれど、そのまま載せることにしました。

興味ある方はアルバムをクリックして下さい。
別ウインドウで開きます。かなり長いので覚悟のうえで・・・。


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サンフランシスコへGO!
ゴールデンゲートブリッジケーブルカーのチケット悲しいけれどフェニックスを離れる日が来ました。
姉妹都市訪問だけではなく、観光もアレンジしてくれていました。
次はサンフランシスコ!
フィッシャーマンズワーフ、ゴールデンゲートブリッジ、アルカトラズ島(遠目で見ただけ)、ケーブルカーと、お決まりの観光コースは押さえてます。

何を見ても珍しいし、嬉しいしでキャッキャッ騒いでいました。
だってまだ高校生。そういうお年頃ですもん。
(今は今である意味、騒いで賑やかなお年頃になっちゃったけど。)
感受性豊かなこの時期に旅したのは、後の私の旅好きを育てる土台となっているに違いないでしょうね。
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ロサンゼルススへGO!
UCLAかも?!
UCLA!!かも・・・わからん
後ろに熊いるし(^^;)
慌しくロサンゼルスに向かいます。

ロスには人がいっぱいで、そして都会なので冷たい感じ。改めてフェニックスの温かさを思い出してしまいます。
フェニックスでは普通のスーパーでも、どこでも会った人皆親切でフレンドリーでした。
田舎の方が人間が擦れてないのは世界各国同じことですね。
フェニックスはそんなにも田舎でもなかったけど。
リトル東京にチャイニーズシアターにハリウッド〜〜ォ!!
リトル東京のミッキーマウス
リトル東京でミッキーと
撮影ポイントもなかなか
ハリウッド通り
チャーリーズ・エンジェルみたい
カッコ良いんじゃない?!
まさにTHE観光地は続きます。
はしゃぎまくった写真が手元にはいっぱいあります。
今は、あんまり自分を撮る事はないけど、この頃は記念にと、撮りに撮っていました。

左はリトル東京。
見るものすべてが新鮮で絵になるポイントがいっぱい。

右はどうやらハリウッド通り。
あんまり下調べなくて出発してた。
今見てみると・・・
チャーリーズ・エンジェルみたいでカッコ良い(・∀・)
              右端が私。
              (右端のおっさんと違いまっせ)
そして、やっぱり ディズニー ランドォォォ〜〜〜!!
本家ディズニーランド
どの写真もピースサインしてる。だっさ〜〜い(^^ゞ
知識がゼロ状態で出かけたアメリカだけど、やはりディズニーランドは結構楽しみにしていた。よほど嬉しかったのか約5冊のアルバムの中の2冊近くディズニーランドで占められてる。田舎モンやったし。(今も)
東京ディズニーランドが出来た時、「ディズニーランドに行ったことがある?」と聞かれると、「アメリカのディズニーランドには行ったことがあるけど、東京はない」って答えてた。
ささやかな自慢(*^_^*)

しょぼい自慢やったもんだわ。
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その後・・・
帰りの機中
帰りの機中
行きに倒れた子も元気
アメリカから帰国して20年もの月日が流れました。
ハワイ・グアム・サイパンとアメリカ領とも言えるところには行ったもののアメリカ本土にはまだ行けずにいます。
10年前にホストファーザーが来日して、会いに行きました。
アンには待望の兄弟、弟が!!(・∀・)
写真で見たアンは、子供の頃の面影はなく、成長した素晴しい女性となっていました。
私はといえば、アメリカの田舎町でのんびり生活したいな〜なんて夢を見続けています。


(注)2006年、約20年ぶりにアメリカに行きました
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