文集の私のページ 旅の文集 かなり長いですがお付き合い下さいませ
20年も前に書いた文章をそのまま転載しています。
文章力の無さはこの頃から相変わらずなようですね(^^ゞ
小さい文字で説明を加えさせてもらっています。

第二の故郷・フェニックス ↓解説(?)です
7月30日、ついに憧れつづけた海外へ翼を広げ(なんてかっこいいもんじゃなかったけど)、日本を離れました。これからはじまる約10日間の海外生活を考えると、英語は通じるかなんて心配もわいてきました。途中かなりの子が飛行機なんかのせいで、気分が悪くなったりしていたようでした。えっ、?私!?日本に戻りつくまで至って健康優良児でした。 いきなり冗談かましています。
フェニックスに到着すると、各家族の方がホストする生徒の名前の書いてある紙を持って出迎えていました。私が、なかなか見つけることができないで困っていると、「里子さんですか」と日本語で話しかけられ、驚いてふりむいたらそこには私のお父さん、お母さんがいました。お母さんは朝鮮の方でした。二人とも日本に来たことがあり、日本にはかなり詳しく、そのため私は日本についての説明をあまりせずにすみました。お父さんは用事があり、私はお母さんと車で家に向かいました。家にはアンという5才の女の子がいました。アンは私のことをビッグシスターと呼んでくれました。アンは幼児言葉のせいか、アンのいう事には必ずお母さんの英語の通訳が必要でした。ちなみに私は子供が嫌いです。
  その日の夕食には、ごはんやのりまで出してあり、気を使ってくれてるんだなと思いうれしかったです。私は、お母さんの炊事の手伝いをしたかったけど、お皿の数が少ないからとか、つかれているから休みなさいとか言われて、最後まで手伝いませんでした。ただ、一度、私は料理が好きだと前から言っていたので、お父さんとお母さんはスキヤキパーティーを開いて、私にチャンスを与えてくれました。
お母さんは韓国人です。

最初、お父さんに会ったとき、握手は女性の方からするものだと聞かされていたのですが、モジモジしていてチャンスを逃してしまいました。

二人きりでいるとき、アンが「水着を着てるところを見たい?」と聞いてきたのですが、聞き取れない&知らない単語で、何度も何度も聞いて来て大変でした。適当に「YES」って返事していたらファッションショーの始まりで、それで水着=BODY SUITだと気付きました。
  そして、お母さんと材料の買出しに行ったのですが、やはりアメリカはすべてでっかい!私の頭ぐらいの肉がごろごろ。しかし2,000円程度と安かったようです。コーラやペプシの3ℓサイズが棚にズラッと並んでいる姿は何とも不気味でした。所々に日本のものがあり、中でも「本格日本風料理」という調味料には笑わされました。スキヤキの材料は揃いきらなかったのですが、家には専用ナベやこんろまであり、私は精一杯作りました。そのかいあってか、お父さん、お母さんは「おいしい」と連発して、たくさん食べてくれました。ただ、アンは、お気に召さなかったのか、自分の部屋に入ってしまいました。自分でいうのも変ですが、ほんとにおいしかった。 この当時、1ドルが200円台だったので、いかに安かったか解ります。

そして、ペットボトルの1リットルサイズでさえもこの当時は日本にまだ存在していませんでした。

本当に上手く作れていたのかなぁ。
肉はちょっと厚切りで、スキヤキというより、牛ナベ風の料理だったかも。
 ケント・デリカットのような市長さんにあい、思わずサインをせがみかけたその日、私のお父さん、お母さんとも都合が悪く、また私と同じように家族の都合が悪かった○子と合流しました。そして、二人ともわけのわからないうちに、きれいな女の人ルースさんと、ケントとズズマンさんの家に行き、ピザや飲み物を御馳走になりました。そして結局、ズズマン夫人とスコット、ケント、ジョシュ、○子、私とで、ビッグ・サーフへ繰り出しました。姫路市民プールよりスケールが大きく、大満足でした。ズママン一家はみんな明るくいい人ばかりで、スコット、ケント、ジョシュという友達もでき、○子と私は一番楽しいひとときを過ごしました。 ここでもいきなり冗談をかませています。

ここでスコットと運命的な出会い(?)をするのです。ウキッ!

姫路市民プールを例えに出したのもスベリまくりの冗談です。
スコットにケント、ジョシュという弟たちがいたことを、この文集をみるまでスッカリ忘れていたわ。

  こうした間にも、フェニックスを離れる日は近づいてきます。いろんな人達と出会いました。フェニックスの人みんなが人情深く、私は助けられて感動しっぱなしでした。フェニックス以上にすばらしいところは、今まで経験したことがありません。 この後、ロスとか行くのですが、フェニックスの人の優しさに改めて気付くのです。
  それ以上に忘れてはいけないのは、私のホストファミリーです。本当の親子のように、相談に乗ってくれました。私は、両親と妹のいる家に帰りたい、フェニックスは私の第二の故郷なのです。また再会できる日まで、フェニックスのみんな、待っていてください。 結局20年以上行っていないけど、アメリカには是非一度行きたいと思っています。
(注)2006年、20年以上ぶりにアメリカに行きました♪


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